【西郷どん】西郷隆盛は本当はこんな顔だった!?

【ドイツで発見西郷隆盛は本当はこんな顔だった!?】
写真1
ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛
「明治7年に陸軍省で撮影されたもので、後列左から、乃木希典、大山巌、西郷隆盛、山縣有朋、前列左から川村純義、勝安房、ジュリアス・ヘルム、西郷従道。」
※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。」http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2014/11/post-9edf.html
研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe
昔の写真なので、仮にこのドイツで発見された写真が本当だったとしても、本当の顔が写っているとは言えません。例えば、二番目の写真、これは西南戦争の時の後列の左から三番目が児玉源太郎ですが、影と光で元の顔とは全然違って見え、一見したところでは本人とは全くの別人に見えます。基本的に昔の写真の技術で一人をフォーカスした写真と違って、集合写真を撮って本人の顔を識別する事はなかなか難しいと思われます。
写真2 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/75/Commanders_of_the_Kumamoto_garrison.jpg
熊本鎮台の指揮官及び幕僚。
前列左より福原豊功少佐、中村寺利司契、谷干城少将、樺山資紀中佐、別役成義少佐。
後列:小川又次大尉、副島仲謙軍医正、児玉源太郎少佐、林隼之助少佐、塩屋方圀大尉
左 集合写真の児玉源太郎 右 児玉源太郎の肖像写真
伝頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をも とに間違いなく西郷本人を描いた肖像であり、遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがこの肖像である。親戚縁者のお墨付きがあるのみならず、他にも西郷に出会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在するので「このような顔」であったことは間違いない。
肥後直熊/画(上段右)、http://p.twpl.jp/show/orig/5Pg2h
床次正精/画(下段左)、http://p.twpl.jp/show/orig/hhKZY
石川静正/画(下段中央)、http://p.twpl.jp/show/orig/MNZVN、
平野五岳/画(下段右)、http://p.twpl.jp/show/orig/JnQ0P
キヨッソーネの西郷の顔を参考に
地元 鹿児島市出身の安藤照が8年をかけ製作した鹿児島の西郷隆盛銅像
キヨッソーネの西郷の顔を参考に作られた鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は
構図と体型そして雰囲気のモデルであって顔の直接的なモデルではない。
フルベッキ写真は佐賀藩の藩校「致遠館」の学生がフルベッキとともに撮った写真であり西郷隆盛は写っていない
2013年04月24日読売新聞 東京朝刊 文化 27面
2013年04月24日読売新聞 東京朝刊 文化 27面
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n344006
http://pro.cocolog-tcom.com/edu/2012/03/post-465b.html
元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。
「オリジナルはイギリスの古写真研究家テリー・ベネット氏の「Early Japanese Images」に取り上げられている。
島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
「島津久治公一行」の写真に写っている「床次正義」の家紋は西郷家の「菊」ではない。
この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。